あれから早いもので5年が経った。思い出すことは多々ある。そのいくつかを忘れない内に書き留めておくとしよう。
・地震直後にフットパスの会合か何かで東京の町田市に行った。小田急線の町田駅は薄暗く、電車は間引き運転。やっと乗れた車内の灯りは消えていて、暖房もなし。人々の顔もやけに暗かった。
・その足で霞が関にある総務省の入居しているビルに行った。当時、同省の政務官だった逢坂誠二議員に会うためだ。廊下はトンネル並みの暗さだった。節電を呼びかけている大元締めなのだから当然なのだろう。でもどんな話をしたのかよく覚えていない。
・同じ月の末から4月初めにかけて熊野古道の大辺路を十数人と歩いた時、JR紀勢線も間引き運転をしていた。4月1日、古道で休憩しているひととき、「今朝早く、東京に高濃度の放射能が達したため、全都民に避難命令が出た」と皆さんに告げたら、全員がやっぱりという表情となった。一瞬の静寂の後、何人かが携帯を取り出して、東京の知人や親戚と連絡を取ろうとした。「待った、待った、今日はエイプリルフールだ」。当事者には失礼ながら私の人生の中でもっともパンチの利いたエイプリルフールだった。